百瀬博教のミッドナイトシュークリーム 最終回
語

  2月1日の寒い日。百瀬さんの近親者が集まり密葬が行われた。空は抜けるような冬晴れ。読経、焼香が終り、出棺のとき私も棺を支え歩き出した。ズッシリとした重さを感じたので、思わず隣の人に「思いですねぇ」と声をかけた。そのとき棺の中で百瀬さんが笑ったような気がした…

 『男だったら/神輿を担げ/父の背中の昇り龍/唐獅不動水滸伝/ほりものの色/夏の色』と百瀬さんが中学三年のときに作った詩を思い出した―-そのとき北風と共に、”木遣り”の節が聞こえてきた。振り返ると《百瀬》と染めぬいたハッピを着た、白髪の男たちが渋い声でうたっていた。

  湯舟の中で大往生。百瀬さんは最後までいい生涯だったと思ったとき、ふたたび、あたりを清めるように北風が吹き過ぎた。

木滑良久(マガジンハウス 最高顧問)

 

上海の苦笑い

  忘れられない笑顔がある。それは、破顔一笑のあとの「まいったなあ」という苦笑だ。いつもの百瀬さんなら、面白い話をして、あるいは聞いて、豪快に笑い飛ばしたあと、ふと真剣な表情に戻って、その出来事から導き出される百瀬哲学を付け加え、最後にもう一度冗談で落として大笑い、となるのだったが、その時ばかりはいつもと様子が違った。映画『シコふんじゃった。』で上海映画祭にご一緒したときのことだ。中華料理屋で出てきた「飯」がかなり臭って、僕は殆んど食べることができなかった。ところが百瀬さんはパクパクと食べている。感心して、思わず言った。

  「やっぱり臭い飯を食ってた人は違うなあ」

  一瞬の間が合って、百瀬さんは大笑いしながら言った。

  「やだなあ。俺だって臭いよ、やだよこんな飯」

  と言ったあとに「まいったなあ」という感じで小さく笑ったのだ。

  確かにそれは、物凄く楽しそうに笑ったそのあとの、あまり見たことのない「苦笑」だった。

  誤解をしてほしくないのだが、別にそれは、自分の過去をふと振返って何かを思う、というたぐいのものではなかった。冗談とはいえ、そんなバカなことを突然言った僕の失礼な物言いに対する戸惑いのようなものだったに違いない。

  そのできごとを気に入っていたのかいないのか、ことあるごとに百瀬さんは、「カントクは酷いんだよ」とその話を色々な人にして笑っていた。もちろんその笑いは、苦笑いではなく、いつもの屈託のない大笑いだ。

  今もまだ、百瀬さんがいないことが信じられない。

  「カントクっ」と呼びかけてくる百瀬さんの声が聞こえる。

  そして、上海の苦笑い

  もしかしたら百瀬さん、あの時、僕を怒鳴りたかったのではないですか。

周防正行(映画監督)

 

  世の中、信じられないことはいくらでもあるが、百瀬さんが亡くなったという知らせほど信じられないものはない。

  その日は、そろそろ見えられる頃だと思い、パリで買ってきたスノードームのお土産を用意して待っていたのに、秘書の井上さんから入った電話は百瀬さんの死を告げるものだった!

  スノードームは前回お渡ししたエジプト・シリーズの続きの「スフィンクス」で、きっと喜んでいただけるものと期待していたのに、なんたることだろう。

  百瀬さんに初めてお会いしたのは、雑誌『現代』の盛り場探訪シリーズ『平成ジャングル探検』の「赤坂編」の取材で、百瀬さんが用心棒を勤めていた伝説のナイトクラブ「ラテン・クウォーター」の思い出を聞かせていただいた2001年の暮れのことである。以前、『東京人』に載っていた周防正行監督との「赤坂対談」を読んで、赤坂のことを聞くなら、この人しかいないと思い定めていたのである。

  以後、プライドやダイナマイトに招待していただいて親交を深めたが、よりディープな付き合いをするようになったのは、私が神保町に引っ越してからのことである。

  あれは、百瀬さんと会食して、タクシーで家まで送ってただいた車中だったと記憶するが、私がふと、「百瀬さんがプライドで部下の方々に命令しているときの態度は《威張り芸》の域に達していますね」と率直な感想をもらすと、その「威張り芸」という言葉に百瀬さんはひどく感心され、「いや、《エバリ芸》とは、先生の観察眼はすごい」と、すっかり私のことを買いかぶられるようになったのだ。

  百瀬さんは、常々、「石原慎太郎都知事から、きみの『失われた時を求めて』を書くようにと勧められているので、先生、少し手伝っていただけませんか?」と、抜群の記憶力を生かした畢生の大作を用意されていたようだが、それもかなわぬ夢となってしまった。

  みんなが大好きだった男の中の男、百瀬博数さんはもういない。合掌。

鹿島茂(作家/共立女子大学教授)

 

失ってみて初めて、

その人の大切さが身に沁みる。

ぼくらは生きている限り、

そんなことを繰り返していくのだろう。

さよなら、そしてありがとう、百瀬さん。

また、会いましょう。

花田紀凱(月間ウイル編集長)

 

百瀬さん、ありがとうございます。

  百瀬さん、このところいるも百瀬さんのことを思い出しています。どれもこれも楽しいことばかりです。ほんとによくしていただきました。ほんとにありがとうございます。

  百瀬さんとはあちこちを旅して歩きました。知り合った翌年の5月にはニューヨークへ行きました。お連れしたグリニッジビレッジのスペインレストラン「エル・ファロ」のパエリャを気に入ってくれた時はとてもうれしかったです。

安西水丸(東京イラストレーターズ・ソサエティ理事長)

 

  僕の人生の中で一番強い人!百瀬博数!!本当に心から百瀬さんに出会えて嬉しくて幸せでした!今でも百瀬さんからいただいた数々の言葉を思い出します。百瀬さんが亡くなってしまった事は本当に残念で寂しい気持ちでいっぱいですが、百瀬さんの言葉は僕の心の中で永遠に生きていきます!今でも何かあった時は百瀬さんだったらこう言うな、とすぐに自分に言い聞かせる事が出来るくらい、本当に百瀬さんには色々な事を教わりました!

  「なぁヒロ、全力で生きろよ」

  「お前は正義だから本物が好きなんだよ」

  「卑怯なことはするな」

  書き出したらキリがないくらい多くの言葉をいただきました。その言葉は今でも僕の財産です!僕の仕事は多くの人達に愛や夢や幸せをエンターテイメントを通じて表現し伝える事!また僕自身も多くの人達に愛や夢や幸せをいつもたくさん頂いています!百瀬さんから教わった事をより多くの人達に伝えていく事が出来たら百瀬さんも喜んでくれるのかなと!心から思っています。まだまだ未熟者な僕ですが百瀬さんの言葉を胸にこれからの人生を全力で生き抜いて、いつか百瀬さんに「お前も本当に立派になったな」と誉められる男を目指して毎日を過していきたいと思っています!

  本当に百瀬さんに出会えて良かった。

HIRO(EXILEリーダー)

 

  大きなものを失い、大きな穴が空いてしまいました。

  百瀬兄の存在は余りにも大きかったから。

  この十数年ご一緒する機会に恵まれ、実に多くのことを学ばせて頂きました。

  今の時代、出会うことの無い、本物の男の持つ、強さ、優しさ、寂しさを身を以って教えられた掛け替えのない方でした。

  大晦日の夜更けに私の打った年越し蕎麦を美味しそうに食べてくれた笑顔が、今でも鮮明に浮かびます。

  二度と会うことが無いだろう本物の男が傍らに居てもらえない寂しさは暫くは消える事はないだろう。

  百瀬兄 楽しく意義深い沢山の思い出と語らい有難うございました。心より深く感謝申し上げます。

  平成20年早春

柴田良三(アルファキュービック代表取締役)

 

  百瀬は立川談志が好きだった。

”好きな人に会いたいてのは当り前だろ”

と、よく我家に来た。

  タクシーの中に二つ折れみたいに乗せたA・猪木とも来たっけ。

  小生留巣の時マンションの取手(ノブ)に時折のモノがぶら下がっていた。果物、菓子、ソーセーヂ、等々。

  けど彼の部屋には入ったことはない。奴のプライバシーはいっさい知らない。

  やたらカメラをガチャガチャと、つまり写真を撮りまくってたっけ。

”あのネ、他人(ひと)の相談にのるんぢゃないよ。最後に恨まれるのは相談した奴だからネ”

  これを妙に覚えている。

”あんたの家系(うち)はテキ屋か?”に”冗談いうない。あんた漫才の人だろ”

  百瀬みたいな死に方が出来りゃぁ、俺も死にたいこの頃である。

二十年如月立川談志

 

百瀬博教様

  西麻布の「キャンディ」で、いきなり、声を掛けられたのが出会いでしたね。キャップを被った独特の風貌の男の巨躯が前に立ち塞がったので、正直、僕は、びびりました。「百瀬です」と律儀に自己紹介しながら、がっちりと握られたあなたのその掌の大きさに圧倒されたことを覚えています。

  「あなたと知り合いになりたいです」

  目を逸らさないストレートなものの言い方は、まるでナンバされたかのようでした。それをきっかけに、鳥越祭に誘われたり、スノウドームを見せて貰ったり、あなたが司会を務めるテレビ番組のゲストに呼ばれたりしましたね。あなたは、不思議な人でした。作家でありながら、人に職業を聞かれると、「不良です」と胸を張って答えていました。最後まで、”不良”という職業の意味がわかりませんでした。そんな強面なあなたなのに、僕の前では、体格のいい少年のようでした。

  「今日は、○人と友達になった」と嬉しそうに報告してくれましたね。見ず知らずの人にも、気軽に声を掛けたり、自慢のカメラを向けたり、あなたは、本当に、人間が好きだったのでしょう。

  「死ぬまでに会いたい人には、全員、会う」というのが口癖でした。

  百瀬さん、会いたい人には会えましたか?あなたが、これまでに会った人たちは、あなたと出会えたことを感謝しています。安らかにお眠りください。

秋元康(作家)

 

  いろんなモノを見せてもらい、いろんなモノを体験させてもらい、いろんな事を学びました。百瀬さんがよく言ってた、”下心”のお返し、まだまだ全然返しきれてないのに逝ってしまうなんて、、。残念です。

藤原ヒロシ(音楽プロデューサー)

 

  百瀬さんに初めてお会いした時、子供の頃、近所にいたおじさんのような”懐かしい”印象を受けたんです。僕の故郷には、百瀬さんのような口調で話をする人が沢山いました。当時、そんな風に話かけてくる人がいなかったので、失礼かもしれませんが、会った瞬間に”懐かしさ”を感じたのだと思います。

  以来、百瀬さんには目をかけていただき、沢山のことを学びました。

  「この世界にいると、何かと陰口を叩く奴がいる。そういうことを言われても、俺たちは言うのをやめような」

  そんな、自分の中で考えていたことが”やっぱりよかったんだ”と再確認させられることもありました。

  お住まいになっていたマンションの前を車で通る度に、百瀬さんはいないかなと探し回っていました。いまでもまだあの通りを走ると、百瀬さんが歩いているんじゃないか、というような錯覚をおぼえます。昨年末から年始にかけ、二度お会いしました。

  「20日過ぎに連絡くれ」と言われた後、そろそろ電話しようかなと思っていた矢先の訃報に言葉を失くしました。

  なぜもう少し早く連絡しなかったのかと、いまでも悔いが残っています。

  30歳を過ぎてから、自分を立たせてくれる人はいなかった。百瀬さん、あなたが僕を立たせてくれました。

  どうもありがとうございます。

高山善廣(高山堂)

 

さよなら百瀬さん

  百瀬さんとはじめて会ったのは高田馬場の空手道場だった。

  私が訓練でサンドバックを蹴っていた時に、入口から巨体で首からカメラを下げ、アポロキャップを被り、黒のジャケットのメガネの男が現れた。

  「こんにちは!!」

  かなり大きな声だった。

  そこにいた道場生は唖然としていた。

  「押忍!こんにちは!!」

  私だけが大きな声であいさつをした。

  数年後、2回目の出会いは百瀬さんの家だった。

  「お前だけだよ。あいさつしたのは。あいさつできない奴は出世しないよ。お前はおもしろい奴だ。出世するぞ」

  それ以来、百瀬塾の一員として様々な楽しい思い出ができた。

  私は活動の場を東京から京都に変えてからは百瀬さんと会う機会がなかったが、しばらくぶりに百瀬さんの家に深夜、突然遊びに行った。

  「元気そうだな。お前が京都を選んだのは大正解だ」

  相変わらず元気そうな百瀬さんだ。

  「私は精神文化の武士道を広めて、日本の国力を上げる仕事に集中しています」と答えた。

  すると百瀬さんは無表情で愛用の一眼レフカメラを差し出した。

  「これお前にやるから持っていけ」

  カメラ好きな百瀬さんがカメラをくれた。

  これが最後だった。

  カメラも形見になってしまった。

  「佐竹、男は女と金と負けることに恥じるな」

  でも今でもこの言葉は私の胸に残っている。

佐竹雅昭(平成武師道)

 

  百瀬さん、さようなら。

  1994年の春、雑誌『太陽』に百瀬さんのインタビュー記事を載せさせていただいた。だが、取材のおりにスタッフがご迷惑をかけたらしく、それからまもない夜、編集長だった私を「ぶん殴りに」行くから待ってろ、と電話がかかってきた。しばらくすると明かりの消えた社の玄関に黒々とした巨体が現れた。それが百瀬さんとの出会いだった。私には、百瀬さんほどの記憶力の持ち合わせがない。親しくしていただいた14年間の数えきれない思い出は駆け足で走り去って、いま浮かんでくるのは亡くなる5日前のことばかりだ。

  1月21日の深夜、「ミッドナイト・シュークリーム」の原稿について電話でお話した。この原稿の中で、ちょうど1年前の1月に亡くなった立教大学相撲の後輩、堀口圭一氏のことが触れられている。原稿を読みながら、この1、2年、百瀬さんをめぐる多くが鬼籍に入られたことを思った。まさかこの原稿が絶筆になるとは思いもよらなかったが、胸の奥に言い知れぬ不安がこみ上げてきたのを思い出す。

  用件が終わると25日の大相撲13日目に行こうと誘っていただいた。残念ながら仕事の都合が合わず、断りすると「それじゃあ、五月の夏場所に、な」と、これまでにないほど残念そうな声が返ってきた。それが、百瀬さんとの最後の会話になった。

  百瀬さん、百瀬さんはいま、迷宮のような記憶に生きていた人たちとの再会を楽しんでおられるのでしょうか。

石川順一(平凡社/編集者)

 

  敬愛してやまない百瀬さんの突然の死に、その事実を知った瞬間言葉を失った。

  亡くなる数日前にも普通に会い、「来週もまた来いよ」と言ってくれた。

  それほど長い付き合いではないがここ5年くらいは毎週のように会っていた気がする。

  そのほとんどの時間は百瀬さんの体験を元にした説法に近いものであったが、僕はまったく退屈することはなかった。

  この何年間で様々なことを教えていただいた。

  そのほとんどが僕のこれからの人生の教訓となるだろう。

  何かに悩んだ時には「百瀬さんならこういうだろうなぁ」ときっと浮かんでくるはずだ。

松浦勝人(エイベックス・グループ・ホールディングス代表取締役社長)

 

  百瀬さんとの出会い、それは私にとって、神様からの最高のプレゼントでした。

  私が20代前半の頃、表参道の交差点で「こんばんは。」と一言挨拶すると、百瀬さんは私の腕をぐっと掴み、そのままアンデルセンの店内へ。そして、手に持ちきれない程の量のパンを買って下さり、「家に持って帰って食え。じゃあな。」とおっしゃり、その場から立ち去られた。あの大きな後姿が、まるで昨日の出来事のように思い出されます。

  仕事柄、沢山の方々とお会いしますが、今後百瀬さんのような方と出会えることはないでしょう。良い意味で、唯一緊張でき、尊敬出来る存在でした。

  私がマスターマインド・ジャパンを立ち上げた当初から、毎回お会いする度に必ず帰り際「本間、お前は必ず成功するからな。」と大きな声でいつも励まし、本当に面倒を見てくださいました。百瀬さんのあのお言葉がなければ、今の私もマスターマインドも想像出来ません。百瀬さんの温かい激励がマスターマインドを救ってくれたのです。

  マスターマインド=一つの事に才能が長けている人。このブランド名を付けるに当たり、私の理想とするマスターマインド像が百瀬さんであり、その人に認めてもらえるような人間になりたい、そう願い、付けた名前です。

  今度、百瀬さんと再会した時に、「百瀬さん、成功しました。」と胸を張ってご報告出来るように、これからも精一杯頑張ります。

  直接お会いして、お伝えしたがったのですが、「百瀬さん、本当にありがとうございました。」

本間正章(マスターマインド・ジャパン/服飾デザイナー)

 

  8年前。当時、南青山にあった我が社の社長室に、

  「こんにちは!」

  張りのある一声が響き、ドアからサーッと風が吹き込んできた。その風はたちまち部屋中を包み込み、私はこれまで体験したことのない磁力に吸い寄せられた。つぎの瞬間、何の気負いや衒(てら)いもないまま、この風に身を任せよう、この空気に包み込まれよう、と思った。

  それが百瀬さんとの初めての出会いだった。

  以来、お住まいと我が社が目と鼻の先だったこともあり、百瀬さんはちょくちょく私の部屋へいらっしゃるようになった。アポなしで、あの風がドアから吹き込んでくる。そのうち、「社長こんにちは!」の一声を聞く前に、あ、百瀬さんだなと判るようになっていた。

  あの部屋で、いつも元気や安らぎをいただき、沢山の勉強(ため)になるお話をいただいた。人間としてどうあるべきか、どうすべきかを教わり、いろんな先達者をご紹介もくださった。季節の折々にいただく品々もかならずシャンとした空気の包装紙にくるまっていた。

  いまでは、そのすべてが私の宝です。

  正直、いまでもまだ百瀬さんが逝ったという気はしない。むしろ、百瀬さんから教わったことが、以前にも増して身に入り、百瀬さんからご紹介いただ人脈が強まり、拡がっているように感じられる。

  百瀬博教という存在は、きっとこれからも「過去の人」ではなく、「現在進行形の人」として私たちの心に生きつづけるにちがいない。

  百瀬さん、あの風はまだ吹いています。

冨永正人(イースト代表締役社長)

 

  皆様、素晴らしいメッセージをどうもありがとうございました。以上をもって1999年6月からスタートした連載を終了します。

  しかし、百瀬さんの魂は永遠に終了しないのだと思います。

(F&E編集部一同)

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